テモテ第二2章

2:1 ですから、私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。

 「恵み」は、一章で示されているように、また、三節以降示されているように、キリストから報いを受けることです。それを望みとする時、力づけられるのです。

 オネシポロの家族については、「豊かなあわれみ」すなわち、確かな契約に対する忠誠によって、報いを受けることを祈っています。文の流れとしては繋がっていて、一章後半で報いについて述べましたが、それを受けて恵みと表現しています。

・「強くなりなさい」→「強める。」中態。人が、強め、同時に強められる。

2:2 多くの証人たちの前で(あなたが)私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。

 テモテは、パウロから聞いたことを他の人に伝える働きを忠実な人に委ねるように命じれました。その働きは、次の世代に受け継がれなければなりません。ただし、ここでは、パウロから聞いたことは、啓示による神の言葉です。テモテは、それを正確に伝えることができる人であり、その賜物がありました。そのことは、十五節に示されています。

 テモテがパウロから聞いたことは、多くの証人の前で聞きました。それは、神からの啓示として人々に語られたのです。それを聞いた人たちは、その啓示の証人になっています。テモテもその一人です。

 これは、今日、先輩の兄弟の教えを次の世代に教えるということに当てはめることはできません。今日、神の言葉は、聖書として完成しています。御言葉そのものを正確に伝えるのです。先輩の兄弟教えには、御言葉が伝えるものと異なる考えや肉の判断が入ることがあるのです。それが正当な教えであるかのように伝えることは非常に危険です。御言葉そのものを伝えるのです。その意味を正確に知らなければなりません。理解が不十分のままでは、証人として証しできないのです。御言葉を取り扱う兄弟は、常日頃聖書の研究をする必要があります。

・「信頼できる」→「忠実な」信仰に対して誠実。神が示したことを受け入れる信仰に対して誠実であり、信じたとおりに歩むこと。人間として信用できるかどうかではなく、神の言葉に対する忠実さのことです。

 これは、恵みを受け継ぐための働きです。信仰によってその務めを果たすならば、祝福を受けるのです。もっと直接的にいうならば、御国で報いを受けるのです。

2:3 キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください。

2:4 兵役についている人はだれも、日常生活のことに煩わされることはありません。ただ、兵を募った人を喜ばせようとします。

 キリスト・イエスにある兵士としてパウロとともに苦しみをともにすることを命じました。兵士は、日常生活に囚われることと対比されています。求められているのは、戦いで、それに専念することが求められています。真理の言葉を伝える戦いなのです。それに召された者は、それに専念するのです。苦しみが伴いますが、そこから退くことなく、避けることなく、専念することが求められています。

 それは、徴募した人を喜ばせるためです。主の御心に適うためです。その喜びのためです。イエス様は、父の喜びのためにすべてを捧げられました。私たちも主の喜びのためにすべてを捧げるべきです。実際、もはや御霊の宮とされ、神のものとされているのです。自分を喜ばせるためではありません。これは、奉仕の動機です。

 そのような動機で仕えるならば、主に大いに喜ばれるのであり、大きな報いをいただくのです。

・「煩わされる」→巻き込まれる。日常生活に囚われる。

2:5 また、競技をする人も、規定にしたがって競技をしなければ栄冠を得ることはできません。

 競技において、規定に従わないと栄冠を得られません。この栄冠は、神から受ける栄誉のことで、報いのことです。

 それを獲得するためには、規定に従うことが必要です。規定に従うことは、神の御心に適った方法や動機によってなすことです。

2:6 労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。

 骨折って働いている農夫は、第一に優先して収穫の分け前に与るべきなのです。これも、報いを受けることです。

・「労苦している」→「骨折って働いている」現在分詞。

・「最初に」→重要度において第一の。第一に。優先度の高さ。時間的最初だけを意味する言葉ではない。

2:7 私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに与えてくださいます。

 比喩で話しました。主は、それを理解する力を与えてくださいます。

2:8 イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。

 そして、イエス・キリストのことを心に留めているように勧めました。それは、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえられた方です。これは、ダビデの子孫であることで人となられたこと、死者の中からよみがえらたことで、死に至るまで父の御心に従われたことと、それにふさわしい栄光を受けられたことを表しています。これも、報いのことです。

2:9 この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。

 福音は、神の言葉と言い換えられています。そのために苦しみを受け、犯罪者のように繋がれていても、神の言葉はつながれていません。

2:10 ですから私はすべてのことを、選ばれた人たちのために耐え忍びます。彼らもまた、キリスト・イエスにある救いを、永遠の栄光とともに受けるようになるためです。

→彼らがキリスト・イエスにある救いを永遠の栄光とともに受けるのであれば(アオリスト仮定:実際には、まだ救われていない。)、その選ばれた人たちのために私は、すべてのことを耐え忍びます。

 選ばれた人たちは、未信者の中の選ばれた人たちというよりも、既に信者になった人たちです。彼らが栄光を伴う救いを受けるのは、まだ先のことです。この救いは、永遠の栄光とともに受けるものとして示されていて、いわゆる救いの立場を得て地獄から救われることではありません。

2:11 次のことばは真実です。「(なぜならば、)私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。

 キリストとともに死んだのならば、すなわち、死んだという事実があれば、キリストともに生きるようになります。死んだその時からそうなるのです。

・「死んだ」→アオリスト。

・「生きるようになる」→未来形。仮定文なので、未来形を使う。

 

2:12 耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。

 忍耐は、王となります。キリストとともに治めるのです。

 しかし、キリストを否むなら、私たちは否まれます。知らないと言われることは、主イエス様御自身が語られました。

2:13 私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」

 キリストが常に真実であるのは、御自分を否むことができないからです。キリストが真実でなくなることは、御自分を否むことです。キリストにとっては、ありえないことなのです。

2:14 これらのことを人々に思い起こさせなさい。そして、何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになる、ことばについての論争などをしないように、神の御前で厳かに命じなさい。

 これらのことを人々に思い起こさせるのは、彼らが永遠の栄光を求めて歩むようにするためです。

 そして、言葉についての論争をしないように厳かに命じるのです。その理由は、言葉についての論争は、益にならないからです。また、真理とは外れたことがまことしやかに語られ、正しいかのように主張されるからです。そのような教えに基づいて歩んだとしても、報いを受けることはできません。

2:15 あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。

 テモテのすべきことは、彼の務めとして真理を宣べ伝えることが委ねられています。ですから、それにふさわしく、真理の御言葉をまっすぐに解き明かすことなのです。

 「恥じることのない働き人」になることが求められています。恥ずべき働き人は、前節に記されているように言葉についての論争をするような人です。その論争は、真理をまっすぐに語るのでなく、自分の考えや主張から、御言葉について論じるのです。真理をまっすぐに語ることと、言葉についての論争は、別のものです。

 私たちがすることは、御言葉に書かれていることをまっすぐ解き明かすことです。それで、私たちは、少なくとも、書かれていることを正しく理解していなければなりません。もし、理解が間違っていたら、言葉についての論争をする人と同じ危険を犯すことになります。

2:16 俗悪な無駄話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔になり、

2:17 その人たちの話は悪性の腫れもののように広がります。彼らの中に、ヒメナイとピレトがいます。

 さらに、真理の言葉とは離れて、「不適切な内容の空虚な話」を避けるように命じました。「俗悪」と訳したのでは、十八節の具体例が示しているように、俗悪と形容するような内容ではなく、まさに不適切です。真理に背いているので不適切なのです。彼らは、神に仕える者として神に近づこうとしていながら、真理に背いたことを話しているので不適切なのです。

 そのような話は、広がるのです。悪性のはれもののように侵しつつ広がるです。その話をする者の名を具体的に挙げました。それは、警戒するためです。教えの誤りに関しては、名を明らかにします。それは、影響を避けるためです。

・「俗悪な」→信仰から離れて神に近づくため、神に近づく(知る)のにふさわしくない。形容詞。

・「無駄話」→中身の無い話という意味です。

2:18 彼らは真理から外れてしまい、復活はすでに起こったと言って、ある人たちの信仰をくつがえしています。

 彼らの主張は、復活が既に起こったというものです。それは、真理から外れています。そして、ある人たちは、その教えによって信仰が覆らされました。影響を受けない人もいるのですが、覆される人もいるのです。

2:19 しかし、神の堅固な土台は据えられていて、そこに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者はみな、不義を離れよ。」

 神の堅固な土台の銘を示すことで、これに反するものは決して受け入れられないことを表しています。

エペソ

5:3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません。

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 この土台は、真理の教えです。その真理の教えは、堅固な土台として据えられています。揺るがないのです。そして、それを扱う者に対しての警告が記されています。

 ひとつは「主は、ご自分に属する者を知っておられる。」ことです。様々な働き人が人から認められていたとしても、主は、「ご自分の者」をご存知です。属すると訳した場合、救いの立場を得ているか否かということが問題になりますが、ここの意味していることはそのようなことではなく、ご自分のものすなわち、御自分の働きにふさわしい者という意味です。

 もう一つは、「主の御名を呼ぶ者はみな、不義を離れよ。」というものです。真理を語らない者たちでも、主の名を口にしているのです。もし、主の名を口にするのであれば、不義を離れるのです。

・「御自分に属する者」→「御自分の者」

・「御名を呼ぶ」→「口にする」。なお、「御名を呼ぶ」というのは、主を求めて信頼することで、この語自体にはそこまでの意味はない。単に口にすること。主の名を呼ぶような人は、当然不義を離れるのです。ここでは、少なくとも主の名を口にするのであれば、不義を離れよと言っているのです。

2:20 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用いられます。

 家には、さまざまな器があります。尊いことに用いられるものも、卑しいことに用いられるものもあるのです。

2:21 ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。

 これらの離れるべきものは、真理から離れた、空虚な話を避けることです。その人は、尊いことに用いられます。神様の言葉をまっすぐに説き明かす、働き人として用いられるのです。その人は、聖なる者すなわち神にふさわしい者になります。主人である主に役に立つものになります。主が用いたいときに用いることができる者になるのです。ですから、あらゆる良いすなわち神の目に適った働きに備えられた者となるのです。

2:22 あなたは若いときの情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。

 若い時には、神の御心に沿って自分を捧げることよりも、自分の願望の達成ということに関心が向きやすいのです。

 それとは対比して、清い心で主を呼び求めるのです。そのような人たちとともに歩むのです。求めるものは、義と信仰と愛と完全さです。

・「情欲」→「強い欲、願望」。情欲は、性的な欲望を指すことが多いですが、聖書では強い欲望や願望を表す言葉です。ここでは、真理から離れたことを語る動機について示しているのであり、性的な欲望は、ほとんど関係ありません。二十三節から、話は、無知な議論のことで、文脈として続いていることがわかります。

・「平和」→「主の御心を知り、従うことでもたらされる完全さという神の賜物。」

2:23 愚かで無知な議論は、それが争いのもとであることを知っているのですから、避けなさい。

 愚かで無知とは、理解していないのです。真理について正確に理解しないまま、語っているのです。また、知るべき情報が不足しているのです。そのような人が、議論するのですから、争いが生じます。議論する場合には、自分の主張が正しいとしてするのです。しかし、その主張が真理を正しく認識したものではありませんから、争いが生じます。人は、正しいことを知って喜ぶよりも、自分の主張が否定されることに対して腹をたてるのです。ですから、争いが生じます。

・「愚か」→「鈍い」「なまくらな」「鋭さがない」比喩的に、「理解が鈍い」「真実をつかんでいない」「脳無として振る舞うこと」

・「無知」→情報や指導が不足していること。

2:24 主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍耐し、

2:25 反対する人たちを柔和に教え導きなさい。神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれません。

 間違ったことを主張する人たちがいたとしても、争ってはならないのです。むしろ。すべての人に優しくするのです。そして、よく教えます。よく忍耐して反対する人達を柔和に教え導くのです。この「柔和」は、妥協するということではありせん。抑制された力と優しさを伴った柔和です。

2:26 悪魔に捕らえられて思いのままにされている人々でも、目を覚まして、その罠を逃れるかもしれません。

 そのような働きを通して悪魔に捕らえられていた人たちを罠から逃れさせられるかもしれないのです。彼らは、目を覚ますかもしれません。

 間違った教えに対して、どのような態度を取るべきかが示されています。